畳は長い間、日本家屋の代表的な床として知られていますよね。
時代劇に出てくる長屋などの狭い室内でも、床は畳が敷き詰められています。
世界的に見ても、畳の床は特殊なものなんだそうですよ。もちろん、日本固有のものです。
ただ、畳の床が定着したのは江戸時代に入ってから。それまではフローリングが主流だったんです。
現在はマンションなどではフローリングがメインですが、そのなかで畳が再び見直されているという現象が起きています。なんだか逆行しているような、不思議な感覚ですね。
畳はクッション代わりだった?
クッション代わりと言われても、なんだかピンときませんよね。
昔の日本の住宅は、偉い人から平民の家屋まで、木板が張り巡らされた床が主流でした。つまり、フローリングです。
時代劇なんかを見ると、偉い人が座るところだけ一段高くなっていて、そこに一人分の小さい畳のようなものが置いてありますよね。
本来なら座布団を置きたいところだけど、綿なんてまだない時代。畳の床が登場するまでは、偉い人が座するクッションの代わりとして、畳張りの板が使われていました。
「畳」はどうしてタタミっていうの?
今は少なくなりましたが、畳職人が畳を作っているのを見たことがありますか?
私もテレビなどでしか見たことはありませんが、畳は芯になる厚みのある板に、菰(こも)・茣蓙(ござ)・筵(むしろ)などを巻いて固定しています。
昔は菰(こも)・茣蓙(ござ)・筵(むしろ)など薄い敷物の総称を畳と言ったそうで、使うときだけ広げて、使わない時は畳んで隅に置いておくから「タタミ」となったとのこと。
ちなみに菰(こも)とか茣蓙(ござ)とか筵(むしろ)って、今は使わないので違いが分かりませんよね。しらべてみたら、こういう区別だそうです。
- 菰(こも):真菰(マコモ)を編んだもの
- 茣蓙(ござ):い草を編んだもの
- 筵(むしろ):稲わらを編んだもの
つまり、原料の違いということですね。
畳が床として登場したのはいつ頃?
畳が床として一般化した最初は、鎌倉時代に登場した「書院造」といわれています。
それまで平安時代の貴族が住むすまいは「寝殿造」が主流で、寝る場所をメインに考えられた造りでした。それを、武家向けに造ったのが「書院造」です。
武士は優雅にただ寝ていられるわけもなく、書物(仕事)をしたり交渉事や接客をするのが日常だったので、床全体をクッションにしちゃえ! という発想だったのかもしれませんね。
また、寝殿造にはあまりなかった引き違いの建具(襖や板戸ですね)による間仕切りの発明により、畳敷きの室が発展していったとのこと。それまでの寝殿造では固定の間仕切りがなくて、特殊な部屋だけ御簾や屏風なんかで仕切っていたんですよ。
部屋の中には高低差を設け、位の高い人が座る場所は一段高くされていました。これと下に述べる「押板」が合体したものが、今の「床の間」の原型ともいわれています。畳の縁も、階級などによって金襴が使われるなど区別されていたようです。
書院造の特徴としては、以下のものがありました。
- 押板(掛け軸をかける壁と置物を飾る机を一体化させたもの)
- 書院窓
- 棚
- 納戸構え(帳台構え・武者隠し)
- 襖
- 角柱
- 落縁
押板は床の間のルーツだし、納戸構えは控えの間で、入り口付近の応接間のルーツだし、落縁は縁側のルーツ。ほとんどが今の和風住宅の設備の原点ですね。
ただ、書院造は武家など一部の上流階級の住宅のみで、一般ピープルはまだまだ畳の恩恵には預かっていませんでした。
畳が一般住宅に使われ始めたのはいつ?
それでは畳が一般の住宅にも使われたのはいつ頃かというと、室町時代に入ってからです。
現在の一戸建ての日本家屋の原型になったのは「数寄屋造り」。
「数寄」とは茶道や茶道に使われる器や道具などのこと全般を指す言葉で、いわゆる「侘び寂び(わびさび)」の世界です。
ちなみに、侘び寂びが好きな人、今で言う趣味人のことを「数寄者(すきもの)」なんて言ったそうです。
すきものって、大人になってからもしばらく「好き者」だと思ってました。ちょっとエッチなことが好きな人みたいな。そういうことじゃなかったんですねぇ(笑)
茶道(茶の湯といいました)は身分の高低をとっぱらって、1人の人間同士として向き合う場でした。茶の湯をするには書院造は格式張っていたので、身分を感じさせる格式を省略して考案されたのが、数寄屋造りです。
「数寄屋造り」は安土桃山時代に登場し、江戸時代に至るまでに様々に試行錯誤が繰り返されて変化していきます。ついには茶道を行うだけでなく、四畳半以下の小さな家屋の代名詞にもなったようです。
やがて格式が省略された数寄屋造りが一般的な住宅としても浸透し、それまで板敷きだったのが畳の床にとって変わられたというわけです。