【江戸ぐらし】行灯が庶民の暮らしを大きく変えた!

優しい灯りが魅力の行灯ですが、夜にも日常的に灯りが使われ始めたのは、江戸時代中期(1603〜1868年)といわれています。

それまでにも行灯や灯火皿(とうみょうざら。台の上に油が入った皿を置き、綿やい草を撚った紐を芯にして火を灯す)の灯りは存在していましたが、油自体の値段は当時お米よりも高く、仏事など特別なときにしか使わなかったようです。

日常的に夜でも灯りを使えたのは、公家などの貴族だけだったんですね。ちなみに江戸時代以前はごま油や荏油(えのあぶら、えのゆ。えごま油のことです)が主流だったようです。

行灯に使われた油の種類

行灯に使われていた油には、いくつか種類があります。
庶民の間で主に使われたのは菜種油です。当時は振売りといって油をかついで売り歩く人がいました。

振売りは棒手振り(ぼてふり)とも呼ばれ、棒の両端にカゴや木桶を天秤のようにぶら下げて、量り売りをする商売の形式です。江戸時代には醤油や味噌、野菜、魚に甘酒・汁粉と、いろいろな振売りが登場したのも印象的ですよね。

庶民は油売りから菜種油を買うことで夜も活動できるようになったわけですが、それ以前は日の出とともに起きて、日の入りとともに寝るというのが当たり前の生活だったわけです。

ただし、最初は菜種油は高かったことから、長屋などに住む人々の間ではより安価な魚からとれる油が使われていました。

外房で採れるイワシの油などが使われていたようですよ。
※文献によると、江戸時代以前にも魚油や鯨油は使われていたとされています。

日本の妖怪に「化け猫」がいますが、化け猫の大好物は行灯の油。
どうして行灯の油をなめるのか不思議でしたが、魚の油が使われていたと知ってからは、なるほど〜と思いました。

菜種油の作製方法が進化して劇的に広まった!

菜種油はそもそもどうやって作られていたのかというと、最初は人力で絞っていました。地域によって絞り方は違ったようですが、いずれにしても手間もかかるし時間もかかります。

人力で油を絞っていた記録は、大蔵永常 著の『製油録』(日本農書全集)に残っています。大阪あたりで一般的だった方法では、5人がかりで菜種一石(150kg)あたり二斗(一斗が18Lなので約36Lですね)とのこと。

それが18世紀に入ると水車の登場で一変します。人力に水車での搾油が加わることで、劇的に一度にたくさんの油を作れるようになったのです。数字にすると、5人で三石六斗(450kgで108L)も採れたそうです。人力の6倍です。これはすごいですね。

水車を使った搾油をはじめたのは、西摂津(いまの兵庫県)とのこと。六甲山からの豊かな水を、清酒づくりやそうめんづくりの製粉などに利用したのだそうで、これを搾油にも応用したんですね。

 

その頃イギリスを筆頭に、欧米では産業革命が始まります(18世紀後半)。日本は鎖国していたといっても、許されていたごく一部の港では海外との貿易が行われていました。平和な時代が続けば国内の物流も発展していった背景があります。そんな時代背景の中で、菜種油の物価も下がってますます手に入れやすくなったでのしょう。

そんなわけで、江戸時代の住まいには夜でも灯りが灯るのが普通になり、人々の生活も変化していきました。

行灯の明るさは何ワット?

ところで、行灯の明るさは何ワットくらいだったのでしょう?
行灯の明るさは、60ワット電球の1/50の明るさといわれています。
(上の画像はおそらく電気です)

60ワットの1/50って相当暗いですね。豆電球くらいです。目に優しいというより、やっとものが見えるくらいでしょうか。その小さな光を和紙で広げて、ぼんやりとした薄暗がりになったのだと想像できます。

それでも、あるとないとでは大違い。
夜は寝るしかなかった生活から、行灯ひとつで夜遅くまで起きていられるようになったのです。

今の間接照明のような雰囲気で過ごしていたのかもしれません。
ただ、現在のようなほのかで暖かな雰囲気とは違い、灯りが届かないところはなんとなく不気味だったと思います。

だからこそ、化け猫や座敷わらしなど、色々な妖怪の話も生まれたのかもしれませんね。

さて、夜に活動できるようになるとお腹が空きます。
それまでは1日2食だった生活から、1日3食になったのもこの頃。

というわけで、次回は江戸時代のごはんについて書こうかなと思案中です。

では、また。

 

 

 

 

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